[エッセー 1998.9]

小国文男

旅先の居酒屋

 先日、急に思い立って群馬県の高崎まで仕事の打ち合わせのために出張した。
 インターネットは便利なもので、オンラインでホテルの予約ができるのはうれしい。僕はこの出張で、初めてこれを利用した。最終的に出かけることを決めたのは土曜日の昼だったが、その日のホテルが予約できた。もっとも、高崎では確保できず、出発時間も遅かったからその日は東京に泊まることにした。
 着いたのは東京の江東区、木場のビジネスホテル。午後の7時すぎだった。ひと休みして軽く夕食を取ったあと、ぶらりと街に出かけた。このあたりは下町、商店街が続いている。
 ぶらぶらと歩いていて、「全国の銘酒あります」という看板が目にとまった。さっそくチェック。一度はやりすごして、もう少しぶらぶらとした後、帰りにやはりこの店に入ることにした。酒味亭・櫂(かい)という。
 店は空いていた。客はひと組、二人だけだった。その二人もしばらくすると帰ってしまったから、客は僕だけになってしまった。
 まずはメニューから、兵庫の純米吟醸「小鼓」を頼む。とはいえ、このあたりは知っている銘柄だから意外性はない。メニューにずらりと並べられると、どうしても知っている銘柄に目がいってしまいがちで、僕としてはあまり面白くない。
 あまり腹が減っているわけでもないので、アテは……、と見まわして、「永平寺の豆腐」と銘打たれた冷や奴を頼む。出てきたところで、まずは何もつけずにそのまま味わってみると、これが美味。
「これ、美味しいですね」
 思わず、ちょうど近くに来た女将さんに声をかけた。
「そうでしょ。何もつけない方がおいしいんですよ、これ。永平寺から直送してもらってるんですよ」
「お寺で作ってるんですか?」
「いえ、永平寺町でね」
 我ながら間抜けた質問だった。もちろんこれは、永平寺のある福井県の永平寺町のことだ。そしてもちろん僕は、その冷や奴をそのまま賞味した。
 これがきっかけになって、お店の方々といろいろな話をすることになった。
「空いてますね。僕はうれしいけど」
「土曜日は会社が休みだから、時間が遅いといつもこんなもんですわ」
 と、女将さん。
「おすすめのお酒ってありますか?」
「そうですねえ……」
 若奥さんは傍らにきて、あちこちのお酒の銘柄をあげる。カウンターの奥からは女将さんが、
「お酒の好きな方にはね、メニューにないお酒を出しちゃうのよ」
「いいですねえ、それをひとつ、何か……」
 すすめられたのは、静岡の本醸造「磯自慢」。
「海苔の佃煮みたいな名前ですね」
「本醸造ですけど、おいしいですよ」
 なるほどあっさりとして、ナチュラルな味わい。何か話そうとして、スッと入るその触感に、思わず、
「これ、うまいじゃないですか!」
 若奥さんと話が合ったのは、地ビールのこと。
「僕はまだ、うまい地ビールに出合ったことがないんですよ」
「私もそうです」
「ビールはやっぱり……」
「ヱビス!」
「あっ、いっしょだ」
 さて、もうひとつ何か頼もうと思っていたら、今度はマスター登場。
「関西の方にはぜひこれを味わっていただきたいですね」
 埼玉県の純米「神亀」をすすめられた。
「この蔵は純米酒しかつくってないんですよ」
 これは麹の香りか、さっきの「磯自慢」に比べると少しクセがあるが、いかにも酒だ。学生の頃、飛騨で飲んだ酒を思い出した(銘柄は忘れたが)。
「お酒というと、東北とか米どころというイメージがあるでしょ。でも関東でもおいしい酒を作っているんですよ。それを知っていただきたくて」
 マスターの話はなるほどとうなづけた。
 やっぱり、酒は自分で選ばずに店に人のおすすめを飲むべし、と改めて思ったものだ。
 ここのマスターは三浦裕さん。若奥さんはマスターの奥さんで、女将さんはお母さんだという。「お酒の銘柄を聞いてもいつも忘れてしまうんですよ」と言ったら、女将さんは飲んだ銘柄をメモしてくれた。これが書けたのはそのおかげだ。いつになるかわからないが、また東京に行く機会があったら寄ってみたい店だ。雑誌などでも紹介されているとのことだった。地下鉄東西線「門前仲町」から木場方面に歩いて数分のところにある。

(記/1998.9.14)

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