[エッセー 1998.11]

小国文男
シリーズ 編集・組版うら話(2)

36人の共同執筆はハプニングもいろいろ

 数年前のことです。京都の高校社会科の先生方の共同執筆による本の編集・組版の仕事が入ってきました。まずは、出版社の編集担当者といっしょにその編集会議に何度か出席しました。するとその中に見覚えのある顔があります。
「失礼ですが、○○先生ではありませんか?」
「そうです、○○です」
「あ、私、高校時代にお世話になった小国です」
「おお、君か」
 しかしよく考えると、日本史だったか世界史だったか地理だったか、習った教科を覚えていません。もし話題になったら実にまずい状況でした。
 その次の会議の日、初顔の方があったので「初めまして」と名刺を出したら、
「知ってますよ」
「えっ?」
「○○先生から聞いてたもんで。確か◇◇君らと同じだよね」
「あっ、□□先生! 失礼しました」
 この方、確かに覚えていましたが、私は直接習っていなかったので印象が薄かったのです。思い当たるのは、私が当時生徒会長をやったために、先生の記憶に残っていたということのようです。もっとも、三無主義とか四無主義とか言われた20年以上も前のこと、生徒会長といってもまさにあみだくじに当たったような類の、何の自慢にもならない代物でした。
 というわけで、二人の恩師が関係する少々やりにくい仕事になりました。
 さてこの本は、A5版サイズで、ひとつの項を2ページ見開きで組んでいくという体裁でした。3段組みで、上の2段を本文、下の1段は注釈にするという形です。
 ところが、なにしろ36人もの執筆陣です。原稿を分担して執筆するといろいろな方があるもので、案の定、「自分の担当分は3段にしてほしい」という原稿が出てきました。書いていると長くなって、2段ではまとめ切れないというわけです。よくあることですから、気持ちはわかります。
 しかしそうは言っても、全体の形を統一しているので、途中に組み方が違うページが混じるのはみっともない。ところがどうやらなかなか頑固な方らしく、一部削除を頼んでも頑として受け付けない模様で、みなさん困惑している様子でした。
「なんとかしましょう」と、私がその原稿を持ち帰りました。やったのは、原稿の一部を一定のまとまりで抜き出し、そのまま下段の注釈欄にもっていくという、ごく単純なこと。つまり、あることについて書いてある部分に主と従のものがあれば、主の部分を本文に残し、従の部分を注釈にまわすのです。内容そのものは変えず、体裁に合わせるという編集です。
 それを見た編集会議の先生方、「そういう方法があったか」と、これはなかなかウケました。ご本人からのクレームもないようです(私が聞いていないだけかもしれませんが)。以後、同様の原稿にはその方法で対応されていたようでした。ちょっとしたコロンブスの卵ではなかったかと、我ながらニンマリした出来事でした。
 実はこれ、かつてある商店街の広報紙の仕事で私が少し長い原稿を書いてしまった時、「長いから一部を抜き出して囲みにしろ」とデザイナーに指摘されたことがあったのです。なるほどと思って記憶にとどめておいたのが役に立ちました。
 もうひとつ、この本はフロッピーで入稿される原稿データの処理に悩まされた最初の仕事でした。
 もちろん原稿用紙に手書きの生原稿もありましたが、多くはフロッピー。簡単に言えば36通りのやり方でデータが作ってあるわけです。文字化けはもちろんですが、3段組みという基本方針がアダになり、ワープロで3段組みにした原稿が少なくなかったのには特にまいりました。もちろんデータはグチャグチャです。それらはほとんど打ち直しました。何のためのフロッピー入稿なんだか、とため息をつくことしきりです。
 ほかにも、数字をはじめ表記のルールを決めていてもまったく意に介さず、自分流で打ってあるデータの多いこと。とにかくフロッピー入稿は曲者だ、と体験的に実感した仕事でした。
 しかしこの本、私の仕事のなかで重版を重ねている数少ない1冊なのです。

※この作品は、小学習会でのレクチャーを頼まれた折りに作成した小冊子「編集と組版」に収めたものに加筆したものです。

(記/1998.11.8)

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