[エッセー 1997.4]

小国文男
ぶらりバーめぐり(2)

ANNIE HALL BAR

写真
ANNIE HALL BARのマッチ

 ANNIE HALL BAR(アニーホールバー)は、十数人が入るといっぱいになる小さな店。ぼくのお気に入りのバーのひとつだ。ある雑誌の取材中にこの店を知ってから、機会があるたびに足を向けている。もっとも、取材の方は丁重に断られて仕事にはならなかった。
 それにしても、ぼくにとってここほど「灯台元暗し」という言葉がぴったりはまった店はない。なにしろ、仕事の関係で出入りしている事務所のすぐ目と鼻の先にあったのだ。
 そこは煉瓦の壁が倉庫のようなたたずまいだが、よく見ると、木の扉の横に店名が刻印されている。しっかり「BAR」と書いてある。何度となく目の前を通っていたのに、教えてもらうまでまったく気づかなかったのがいかにも口惜しい。
 ドアをあけたらいきなり店だった──これがぼくのANNIE HALL BARの第一印象だ。店内は竹を真っ二つに割ったように、細長い空間がカウンターで縦にスパンと区切られている。しかもカウンターは入り口の壁から一番奥まで続く。だから、ドアを開けらすぐそこにカウンターがあるのだ。
 たいてい、中にもうひとつドアがあったり、少し通路があったり、あるいはカウンターが切れていたり、少し広かったりと、とにかく入り口ということを印象づけるスペースがあるだけに、ちょっとびっくりした。
 そのカウンターをグリーンの傘の照明がぼんやりと照らしている。店は薄暗い。造りは直線的なのに、あかりが空間を丸くしている。まずこれが居心地がいい。
 居心地がいいのは他にもある。まんべんなく広い客層だ。若い人ばかりでもなく、かといっておじさんばかりでもない。男ばかりでもなく女ばかりでもない。そしてカップルばかりでもない。一人で来てもホッとできる店だ。
 そしてもうひとつ、漫画家の松本零士のような鼻髭と顎髭をたくわえたマスターだ。
 初めて訪ねた時は、ほぼ満席だった。
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
 マスターのひと声とその穏やかな表情で、スーッと緊張がゆるんでいったものだ。
 ある時、客がぼく一人になったことがあった。マスターといろいろ話をした。
「私の一番好きなバーですね」
 とマスターがあげたのは、ぼくも知っている店だった。
「3年前に取材したことがあります」
「マスターと話されたんですか?」
 話をしなければ取材にならない。ぼくはしばらく、マスターの言葉の意味を図りかねた。
「話をするようになると、行きたくなくなるかも知れないと思って……」
 あっ、と思った。客とバーテンダーの距離は、バーの大切な要素のひとつだといわれる。目の前にいて、必要な時には何でも頼めるけれど、飲んでいて気にならない存在。この心地よい関係を崩したくないから話をしない、とマスターは言っているのだ。
「そういえばあの方、透明人間みたいな人ですね」
「そうですね」
 笑っているマスターに、バーテンダー魂を垣間みた気がした。どうやら話しすぎたようだと自分をいましめながら、ぼくは、また来ようと思った。

※追記 紹介されるのは好まないというマスターに、頼み込んで書かせてもらった。ほとんど紹介されていない、知る人ぞ知るというかなり穴場的なバーだ。京都・北山通大宮の近く、紫竹(しちく)と呼ばれる住宅街にある。

(記/1997.4)

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