[えでぃっとはうすのときど記]

ばあちゃんの横浜港

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「大きな船が見えるよ〜」
 ばあちゃんがそう言ったのは最晩年、寝たきりの布団の中だったと思う。もちろん窓の外には海も港もない。日本海には近いが、京都府北部の内陸だ。もう40年近く前のこと。僕はまだ高校生だった。
 ばあちゃんが、いまで言う認知症だったと知ったのは、それからずっとずっと後のことだ。徘徊して近所の家に上がり込んだこともあったそうだが、クラブ活動に明け暮れていた当時の僕はちっとも知らなかった。足を痛めてから亡くなるまでの数年間、ばあちゃんはトイレに行く以外、ほとんど布団の中で過ごしていた。
 ばあちゃんに見えた船は、認知症の症状としての幻視だったのかもしれないが、若い頃は横浜で暮らしていたと聞いているから、その頃の記憶が蘇ったと考えれば別に不思議ではない。なんでも、生糸検査所というところに勤め、そこでじいちゃんと出会って?大恋愛?の末に結婚したらしい。いまからだと80〜90年ほど前のことだ。
 とはいえ、記憶に残っていたその風景を、ばあちゃんはどこで見たのだろう。

 その横浜を訪ねる機会が最近あった。せっかくなので、件の生糸検査所跡に行ってみた。現在は建物が復元されているものの、内部は横浜第2合同庁舎として国の省庁などが入っていた。
 柱部分の赤レンガが重厚感を漂わせている。何か当時の様子がわかるものでも展示してあるかと思って案内で聞いたみたが、名残りは外壁だけだという。係の女性は「よく聞かれますが……」と申し訳なさそうだった。
 しかしここは、みなとみらい線馬車道駅のすぐ近くで、まさに横浜港の目の前だ。建物前の「旧生糸検査所」とした説明版には、次のような記述があった。

「キーケン」の名で親しまれていた建物。耐震耐久性の問題から解体されたが、極力創建当時の状態に復元し、新築、再生を図った。震災復興期の建築としては最大規模を誇り、横浜ゆかりの建築家遠藤於兎の晩年の大作である。

 ここでの「震災」は関東大震災。建築年代は1926(大正15)年、地上4階地下1階とある。後に北棟が増築されている。ばあちゃんが勤めていたのはたぶん昭和1桁頃で、その頃は20代だ。たくさんの若い女性が働いていたらしい(参考・はまれぽ.com)。
 いまは周囲に大きなビルが建ち並び、その建物から港の船を望むことはできない。しかし「最大規模」だった当時ならどうか。
 神奈川県立公文書館所蔵の1937(昭和12)年の横浜市中区全図(神奈川デジタルアーカイブ・土地法典より)を見ると、現在は埋め立てられているみなとみらい地域も、当時は港そのものでドックなどがあったことがわかる。それは、竣工直後と思われる生糸検査所を東南方向から撮影した写真(横浜歴史情報マップより)でも確認できる。周囲に高い建物も見当たらない。
 さらに1925(大正14)年には、大桟橋も震災被害から復旧・竣工している(参考・大さん橋の歩み)。上記写真では見えない右手側だ。
 察するに、ばあちゃんが勤めた生糸検査所の建物からは、横浜港やそこに停泊する船などが広々と見わたせたに違いない。

 もう一つの可能性を考えて、ばあちゃんとじいちゃんが暮らした住所にも行ってみた。いまは空き地のようだった。そこから港は見えなかった。ばあちゃんが独身時代に暮らしたところは、もはやわからない。
 これらのことから考えて、あの日のばあちゃんに見えたのは、若い頃に日常的に見ていた生糸検査所からの横浜港の風景だった──。その可能性が高いと思う。

(記:2016/01/11)



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